新日暮里テレビ放送

1962年4月14日:新日暮里では八天放送(BSH)に次いで2番目、民放ではラジオを含めて初の放送局としてアメリカ施政権下の琉球政府新大東海上都市内限定で開局(ただしスタジオは那覇市内にあった)。当時のコールサインはKSAW-TV。当時は社名通り日本テレビの支援は受けていたもののオープンネットだった(ネット番組は日本テレビ5:RBC/OTVのローカル1:他系列4)。
1966年12月19日:カラー放送開始(在琉球民間向け初のカラー放送)。
1970年10月1日:琉球教育テレビが開局したことに伴い、まずNET(現在のテレビ朝日)とTBS(一部)の番組がRETに移る。
1972年5月15日:領土返還されるも、日本の放送局としては認められず、紛争が起きる。
1973年7月1日:天孫地間花国政対策室管轄に入り、コールサインJS6AW-TVを割り当てて難を逃れる。
1973年10月1日:テレビ新琉球(現在のテレビ琉球)が開局し、TBS・フジテレビの一部番組が姿を消す(開局間もない東京12chは元からあまり放送していなかった)。
1975年3月31日:関東地区資本整理の影響でTBS・ABC系および那覇RBCの番組が完全に姿を消し、NNNにオブザーバーで加盟する。
1977年10月1日:RBC・OTV乗り入れによりフジテレビ系(那覇OTV含む)番組も消え日本テレビの単独ネット局になる。
1980年代:沖縄県内で放送できるよう日本の旧郵政省(総務省)に電波割り当ての要望が出される。
1981年4月:地上3階、延べ床面積1万2000㎡の下那覇制作センター(のち新琉都センター)落成。
1989年5月9日:発起人の一部がこの日の南西放送発起人会に参加。参加を知らされていなかった一部の株主が激怒(国場組など)。

  • 最終更新:2015-04-24 23:07:24

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